SSブログ

宝永町248番地 第64話 [Wessay]

運動会

小学校に登校するとき、ぼくは宝永町商店街を通らない。
一本南側の、商店街よりさらに細い道を通る。
それから先もドブ川沿いの道を選んでいくのがお気に入りの通学路だ。

裏通りの角には金物屋さんらしきものがある。
鍋や薬缶を売っているわけではなくて、作っている。
何を作っているのかはぼくにはわからなかったけど、金属の板らしきものを、
トンテンカン、トンテンカンと叩いている音が平屋の建物の中から聞こえてくる。

その家の前には犬小屋があって、一匹の白いスピッツが繋がれていた。
毎日のように会っているのに、ぼくの顔を覚えるつもりはないようで、
行きも帰りも必ず、その犬はとってもやかましい挨拶をしてくる。
その声はまるでサイレンのように耳煩わしかった。
周りの音がうるさいから、ヨシムラのおばちゃんみたいに声が大きいのかなぁとも想像していた。

ある日、学校に行って朝礼が終わると、オカザキ先生に呼ばれた。
「今日の放課後、帰らないでちょっと残ってて」
一瞬どきりとしたが、最近学校でイタズラした覚えはないのでひとり安心した。

下校の挨拶が終わってしばらくしてから、先生に連れられて教室を出た。
廊下を歩きながら、もう一度ぼくはよく考えてみたけど、やっぱり心当たりはない。

職員室に入るのははじめてだった。
先生の机のところまで行くと、隣の組の先生と女の子が立って待っていた。
ぼくを迎えるなり、その男の先生が口を開いた。

「これからふたりに手伝ってほしいことがあるんだよ」

その後をオカザキ先生が引き取った。

「声を録音させてほしいの」
「声?」
「運動会で使うの」

それからぼくたち四人は放送室に移動した。
隣の組の子とぼくはマイクが置かれている机に並んで座らされた。
机の上にはひとりに一枚ずつ紙があり、何やら台詞がいくつか書いてあった。

「先生が合図したらマイクに向かって大きな声で読んでね」
「まずは一番から、用意はいい?」
「はい」
「はーい」

その女の子はお友だちじゃなかったし、話をしたこともなかったけど、
放送室の異様な雰囲気に飲み込まれて、ぼくは人見知りすることを忘れていた。

「じゃあ、どうぞ!」
「あっ、夕焼けだ」
「ほんとだ、真っ赤だね!」
「あの夕焼けに向かって走ろう!」
「うん!」

何回かやり直しもしたけど、録音は思ったよりも呆気なく終わった。
先生たちはこれから編集をしなくてはならないということだったので、
ぼくたち生徒ふたりは開放されたが、途端にはずかしさがこみ上げてきた。

「じゃ、さよなら」
「うん、さよなら」

ランドセルを手にぶら提げたまま、放送室から下駄箱のある玄関まで、一目散に走った。
急いでズックを履いて、外に出たところでぼくはやっと一息ついた。
校舎に沿って西門まで歩いたが、人影がなくて何だかいつもと景色が違う。

それから、いつものドブ川沿いの帰り道をとことこ歩いているうちに
気持ちのうねりもしずかになっていった。
ところが、金物屋の角に来るやいなや、サイレン犬にギャンギャン吠えられて、
それも台無しになり、ぼくはがっくりしてしまった。

でもふと、斜め前の家の軒下に四角いものがぶら下がっているのを見つけた。
そこは芋ケンピ屋さんだった。
金物屋と違って、こっちは玄関先に小さな木の陳列棚があり、商品を売っている。
家の奥からはかすかに製造用機械のうなるような音が、ゴウンゴウンと聞こえてくる。

果たしてその四角い代物は鳥駕籠だった。
中には一羽の黒い鳥が、みかん色のくちばしをこちらに向けて止まり木にいた。
テレビで見たことがある。
九官鳥だ。

ちょっと顔をかしげて黒い目をパチクリパチクリさせている。
目の下のあざやかな黄色い線は日本の鳥ではないことの印のように見えた。
ところが、ぼくが鳥駕籠に顔を近づけようとした瞬間、

「ワン、ワンッ」

吠えたのは、スピッツではなく、九官鳥だった。
度肝を抜かれて、今度はぼくが目をパチクリさせてしまった。


そして運動会当日、ぼくはスピーカーから聞こえる自分の声を合図に運動場の真ん中に駆け出したのだった。


運動会.JPG

宝永町248番地 第63話 [Wessay]

悪事師(わりことし)

宝永町商店街にはおもちゃ屋さんがない。
隣町の菜園場商店街は宝永町よりも、店の数と種類で一段上という気がする。
おもちゃ屋さんもあったし、本屋さんもニ軒ある。

そのおもちゃ屋さんで最近目にとまったものがある。
いや、もうすでに完全に心を奪われていた。
ミニカーだ。

車のおもちゃは特にめずらしくはないし、ぼくもいくつか持っている。
ミニカーはその名のとおり、他の車のおもちゃよりも小さいくらいだ。
でも手にしてみると、他のとは格別だ。

まず、見た目が違う。
子どもの手のひらに乗るくらいの小ささなのに、きっちり縮小されていて外観が本物そっくりだ。
ライトやハンドルなど、細かい部分も手を抜かずに作りこまれている。
それから、プラスチック製のとは重さが違う。
ずっしりとしていて、ぎゅっと詰まったような重さだ。

もうひとつ、何と言っても惹きつけられてしまうところがある。
ドアが開くのだ。小さなドアを開けたり閉めたりしているだけで楽しいし飽きない。
もちろんタイヤも回転する。しかもとてもなめらかに。

だけど、ちょっと値段が高かった。
相変わらず貯金がないぼくは、相当お小遣いをためないと買えない。
またしても、何かがぼくを支配しようとしていた。

何日か続けておもちゃ屋さんに通った。
通うほどに欲しくてたまらなくなった。
たまらないと感じた瞬間、ぼくはまた制御不能になってしまっていた。

味をしめていたわけではない。
甘納豆くじを買占めてからは一度も手を出していないから。
でもやっぱり思いつく方法はこれしかなかった。

ぼくはお店の勘定箱からお金をちょろまかした。
でも前回のようにお札をとることはせず、小銭を何枚か適当にとった。
それではまだ買えないので、翌日また数枚とった。
三回分のお金を持って菜園場商店街に走った。

「このミニカーちょーだい」

そのままぼくは商店街の近くの横堀公園に向かった。
この公園はふみちゃんが通う小学校の近くにあって、とても大きくて遊具も多い。
子どももたくさんいる。でもぼくの通う小学校のお友だちはいない。

公園の真ん中にはコンクリートの築山が聳えていて、その山頂目指して、ロープで登ったり、
急斜面に埋められた小さな石を手がかり足がかりにして登ったりできるようになっている。

ぼくは買ったばかりのミニカーと残りの小銭をズボンのポケットの中でヂャラヂャラさせながら、
すべり降りるための斜面を逆に一気に駆け上がった。
砂で少しすべって、最後は四つんばいになったけど、無事に山頂に辿りつくことができた。

ぼくは頂上に座っておもむろにポケットからミニカーを出し、空に掲げてじっくり見直した。
白いスポーツカーは青空に浮かぶ雲のようでまぶしかった。
罪の意識など容易く消し去ってしまうくらい、あまりにもそれは無垢だった。


その後も制御不能状態が続いてしまった。
一台では満足できず、ニ台、三台と手に入れた。
手に入れるため、更に悪事に手を染めた。

でも抜け目のないぼくは、一度にたくさんちょろまかすことはしなかった。
ミニカーで遊ぶときは少し遠いけど、横堀公園まで行ってひとりで楽しんだ。
ふみちゃんやマサヒロに見せびらかすこともしなかった。
ナオシにちらっとだけ見せたときに大騒ぎされたので、それからやめることにしたのだ。

そのくらい慎重になるほど、子どものぼくには大金に値するということがわかってきた。
もう取り返しがつかないこともわかってきた。
もし、お金を返しなさいと言われても、それはできないのだ。

だからぼくはもうお金をとるのをやめることにした。
ひとりで遊ぶことにつまらなさを感じはじめていたのもひとつの理由だったと思う。
更にミニカーで遊ぶことそのものにも飽きてしまえば良かった。


ある日、ぼくはミニカーをニ台持って遊びに行った。
お気に入りの白いスポーツカーともう一台はパトカーだった。
公園を囲む低い塀の上を道路に見立ててぐるりと一周したり、滑り台のスロープを滑降させて散々遊んだ。
少々塗装が剥げてきたけど、それはしようがない。

家に帰ってきたぼくは、いつものようにミニカーをおもちゃ箱代わりにしている、
中が空洞になっている円筒形の椅子に大事にしまおうとした。
その時、スポーツカーのドアが少し曲がっていることに気がついた。
ガタがきたのだろう、ドアは閉まらないことはないが、開けるとカクッと斜めに傾いてしまう。

部屋の真ん中で眺めているわけにはいかないので、ぼくは二段ベッドの上の段に登った。
じっくりとドアのヒンジ部分を見てみたけど、壊れている部分がどこかはわからなかった。
もちろん、お父ちゃんやじいちゃんに直してとお願いすることもできない。
途方に暮れつつも、横になっていたせいか、眠くなってしまったぼくはウトウトしはじめた。

夢うつつの境地からふと我に帰ると目の前にお父ちゃんの顔があった。
二段ベッドの上の床の高さは、ちょうど大人の目の高さなのだった。
夢だったらいいのにと思ったけど、スポーツカーのドアはやっぱり傾いていた。
そのミニカーもお父ちゃんの目の前にあった。

「どうした、それ」
「買ってきた」
「お金はどうした」
「お小遣いで買った」
「そんな高いの買えるわけないだろ」

当然のことだけど、買える理由は思いつかなかった。

「そうか、道理で最近・・・」
「・・・」

全部バレてしまった。
ぼくはベッドから引き摺り下ろされ、柱のところに立たされたぼくの脳天にゲンコツが一発落ちてきた。
スポーツカーは取り上げられ、
「お巡りさんのところに連れて行くかどうかはお母ちゃんと相談する」
と言い残してお父ちゃんはいなくなった。

そしてぼくは残ったニ台をおもちゃ箱の底のほうにこっそり埋めた。


2000GT.JPG

宝永町248番地 第62話 [Wessay]

曼珠沙華

倉庫の壁に一本の網が立てかけてあるのを見つけた。
ぼくの持っている虫捕り網とは全然様子が違う。
木でできた柄は太く長く、網の枠も木でできていた。

それに、持ってみるととっても重たい。
枠の大きさは1メートルくらいありそうだけど、図体のわりに網の目は細かい。
小さなバッタには逃げられそうだけどセミなら大丈夫そうだ。
虫捕り網でないことはわかったが、何用なのかはちょっと想像できなかった。

しかし何であれ、相当に役に立ちそうであり、心強い道具だと直感した。
そう思った瞬間にぼくはそれをぼくのものにすることにした。
少なくとも使わせてもらうことに決めた。
だから、じいちゃんにもお父ちゃんにも「これ何?」などと質問しなかった。

次の日の午後、さっそくマサヒロとふみちゃんを誘って、魚獲りにでかけることにした。

「ふみちゃーん、用意できたー?」

例の網とバケツを持って玄関から声をかけると、間もなくふたりは現れた。

「うわっ、それどうしたの?」
「買ったの?」
「家にあった」
「へー、でかいねー」

何となく予想していた反応に、ぼくの鼻は少し高くなった。

「みんなにも貸してあげるからね」
「うん、貸してね」

店の前を通るとき、勘定場に座って新聞を読んでいたじいちゃんがメガネをずらしてぼくたちを見た。
網を肩に担いだぼくと目が合うと、一瞬「ふうん」という顔をして、メガネを直した。
ちょっと往なされたような気がしたけど、咎められなかったことに安心した。

ぼくたちは一列縦隊で意気も揚々と行進した。

いつものように一文橋を渡るとき、たくさんのトンボに出くわした。
シオカラトンボにムギワラトンボ。アカトンボもそろそろ山から降りてきたようだ。
川と土手の上の空は赤、青、黄の小さな十字形で彩られていた。

でもぼくは寄り道せずに田んぼへ向かうようにふたりを誘導した。
先頭のマサヒロはしばらく横を向いて歩いていたけど。

二期作の田んぼの稲はまだ穂が出てなくて、鮮やかな翠色(みどりいろ)をしている。
畦という畦には真っ赤な曼珠沙華が燃え立つように連なり重なりして咲いていた。
白黒の世界に迷い込んでしまったような気がするほど、そのふたつの色は強烈だった。

そういえば、この前、ばあちゃんと土手を散歩したとき、この花のことをたずねた。

「ねぇ、どうしてこの花は葉っぱがないの?」
「葉っぱは花が散ってからでてくるから心配いらん」
「どうして一緒にでないの?」
「仲が悪いのかねぇ」
「ふうん」

ぽかんとしているのも束の間、ここに来た目的を思い出したぼくは、新兵器を持って用水路へ近づいた。
水に入れてみると網の幅は水路の幅と同じくらいあった。
これだと正に一網打尽になる。

「こりゃすごい」

ひと掬いして畦道の上で網をひっくり返すと、果たして大漁だった。
小鮒やメダカ、小エビにミズスマシ。辺りは何種類もの獲物で散らかった。

「うわぁ、いっぱい獲れたねぇ」
「はようバケツに水入れて」
「うん、ちょっと待って」

マサヒロが汲んできたバケツに片っ端から獲物を放り込んだ。
それから交代で何回か掬うと、バケツの中は生き物でごった返しになってしまった。

「もっとでかいバケツを持ってきたらよかったね」
「あたしのこのちっちゃいのは要らんね」
「うん、でももう一回掬うからね」

ぼくは用水路の脇に立ち、ここだと狙いをつけた水草に向かって網を突っ込んだ。
横に移動しながら網を動かすと、忽ち泥が湧き上がって水の中は全く見えなくなった。
それでも速度を落とさずにそのまま数歩進んでから網をぐいっと持ち上げた。

その瞬間、何か手応えを感じた。石でも一緒に掬ったのかと思うほど重かった。

「おりゃー」

網をまた水の中に落っことさないように、腰を落として両腕に力を込めた。
泥だらけの網はやっとこさ畦に上げることができたが傷んでしまったかもしれなかった。

「何か太いのがいる」
「どれどれ」
「ほらほら」

網の中で何か黒っぽいのがのたくっていた。まさかウナギじゃないよな。
細長い体をしているがウナギじゃなかった。
一瞬、ヘビかとも思ったが、そんなには長くなかったし、むしろ寸胴だった。
それにヒレがあったから、魚であることは間違いなかった。
よく見るとそいつの体はこげ茶色をしていて、全体に飴色の模様があった。

「何これ、ドジョウ?」
「ナマズ?」
「うーん、ドジョウはこんなに太くないし、ひげがないからナマズでもないよねぇ」

ぼくたちには未知の生き物だったと同時に、どうしても持って帰らなくてはならない大物だった。

やむなく大きいバケツの獲物はふみちゃんの小さいバケツに入るだけにして他は全部逃がした。
大きいバケツにはそいつだけを入れたけど、それでも窮屈そうだった。
漁もこれで終わりにするしかなかった。

濡れた網も水と獲物の入ったバケツの重さも何のその、帰り道のぼくたちの足取りは軽かった。
商店街の中を通るときは、むしろ自慢げに高々と網を掲げて歩いた。
ふみちゃんもマサヒロもまだ興奮がさめていない様子でぼくの後をついてきた。

店の前に到着した頃、ちょうど夕焼けがはじまって、西の空に茜色がさしていた。
神社の境内ではいくつものコウモリの黒い影が不規則に飛び交っている。

そして早速、じいちゃんに獲物を見せてその名前を教えてもらったけど、誰も聞いたことがなかった。

P1010806.JPG

宝永町248番地 第61話 [Wessay]

チキンライス

宝永町商店街は市の中心部から少し離れている。
繁華街までは子どもが歩いていくにはちょっと遠すぎるというくらいだ。
放浪癖のあるぼくには当てはまらないけれど。

地方都市の唯一の繁華街のことを下町の人は”マチ”とか”お町”と言っていた。
町に行くということは少しだけ特別なこととされているようだった。
だから、おとなに連れられて町に行くときは”よそ行き”の服を着せられた。

いつも駆けずり回って遊んでいるぼくたちの普段着は、
あちこち擦り切れたり、汚れが染み付いていたりするので、それはよくわかった。
さすがにこれでははずかしいとぼくも思った。

今日はふみちゃんのおばあちゃんが買い物に連れて行ってくれるという。
もちろん、ふみちゃんも一緒だ。マサヒロと妹も行くのでかなり大勢だ。
カリヤばぁは行かないらしい。
お母ちゃんに着せてもらった、よそ行きの服は小洒落ていて、どこかくすぐったかった。

「ふみちゃーん、準備できたよー。早く行こう。」

妹を連れて玄関口で叫んだ。

「はいはい。ちょっと待っててね。」

おばあちゃんの返事が小さく聞こえたと思ったら、二階からマサヒロとふみちゃんが降りてきた。
ふたりもやっぱり”よそ行き”を着ている。
おばあちゃんは奥の部屋からでてきて、ジーコロジーコロと電話をかけはじめた。
ハイヤーを呼ぶのだ。

居間に上がらせてもらって待っていると、間もなく表から「プップー」という音が聞こえた。
表に出るとハイヤーが方向指示器をチカチカさせて停まっていた。
それにぼくたち一行が乗り込もうとしていると、ヨシムラのおばちゃんが、

「今日はどこ行き?」

と誰に向けてでもなく声をかけてきた。

「ちょっとオマチまで。」

ふみちゃんのおばあちゃんが代表して答えてくれた。

ぼくは前の席に座りたかったけど、それでは全員乗れなくなるというので、
おばあちゃんが前に乗り、ぼくたち子ども四人は全員、後部座席に並んだ。

車で行くと”マチ”はあっという間に着く。
中央公園の前に停車したハイヤーから、ぼくたちは巣箱から飛び立つハトのように躍り出た。
目の前にはおそらく街中で一番高いビルだと思う大きなデパートが聳え立っている。

ここがぼくたちの目的地だ。
おばあちゃんにとっては買い物をする場所。ぼくたちにとっては遊ぶところだ。
そう、デパートの屋上には遊園地があるのだ。
その楽しみがあるのでお買い物の間はみな大人しくしていた。
おもちゃ売り場に行きたいという言葉も我慢して飲み込んだ。

「よし、買い物終わったから屋上へあがろうか。」

エレベーターに乗り込むとお姉さんがぼくたちに向かって笑いかけてくれた。
ぼくたちもついつい釣られてニヤニヤしてしまう。
その顔を見て、お姉さんは行き先階が大体わかったようだった。

屋上に着くとおばあちゃんはテントの下のテーブル席に腰掛けて一息入れた。
ぼくたちはさっそく小さな遊園地に向かった。
低い柵で囲われた中を自由に運転できる電気仕掛けのゴーカートに乗りたいんだけど、
まだぼくたちは乗っちゃいけないらしかった。

しかたなく、まずは皆でミニ鉄道に乗車した。
屋上の敷地の半分くらいをぐるっと一周する。
一番外側に差し掛かると金網越しに街中を見渡せたが高くてちょっと怖かった。

と、不意に一羽のアゲハが風に吹き上げられて空に舞った。

「あ、ちょうちょ。」
「こんな高いところまで飛べるんだ。」

橙色をしたチョウはキラキラと光の粒をまきながら、また風に流されて遠くに消え去った。

それから今度はめいめい好きな乗り物を探した。
乗り物といっても硬貨を入れると一定の時間、ただ上下に動くだけの代物だ。
マサヒロはパトカー、ふみちゃんはウサギ、ぼくはダンボにした。
妹はぼくが終わるのをそばで待っていた。

何種類か乗ったら、テントの下に呼び集められた。
休憩所にある売店では軽食やソフトクリームや飲み物が売られていて、
おばあちゃんはすでにレモネードをあらかた飲み終わっていた。

そのほぼ空になったガラスのコップを見た瞬間、喉が渇いたなぁと気がついた。
するとふみちゃんが大きな声で、

「オレンジジュース飲みたいーっ」

とおばあちゃんにおねだりした。

「ぼくも」
「ぼくもーっ」

おばあちゃんにお金をもらって、売店にみんなで走った。
カウンターの脇にある機械の上についた、透明のプラスチックのケースの中で、
オレンジジュースは噴水のように吹き上がっていた。

「さっきのちょうちょみたいね。」
「えー、チョウはきっとおいしくないと思うよ」
「そうじゃないよ」

みんなでテーブルのところまで戻り、ストローでオレンジジュースをゆっくりすすった。

「ほらぁ、みんなちょうちょみたいだよ」
「あ、そうか」
「ははは」
「うふふふふ」

妹もなんとなく分かったみたいで笑っていた。

ジュースを飲み終わる頃には今度はお腹がすいてきた。もうお昼だ。
ぼくたちはおばあちゃんに連れられて、掘っ立て小屋のようなレストランに入った。

そしてみんなでチキンライスを注文して食べた。

ChikenRice1.jpgPhoto by ASHINARI

宝永町248番地 第60話 [Wessay]

風船アイスと鰹

ぼくの家は酒屋だ。
お酒だけじゃなくて食料品やタバコも売っている。
お菓子やジュースも売っているけど自由に口にすることはできない。

だからお小遣いはほとんど駄菓子屋さんで使った。
でもほんのちょっぴりのお金では一日にひとつ買うのがやっとだ。
夏は5円のバナナアイスやゴム風船アイスにも相当費やした。

バナナアイスは商店街の中にある工場で作っているので、そこでできたてを買う。
風船アイスは岡林商店や家の店では売ってなかったので商店街の別の駄菓子屋で買う。
大抵、ふみちゃんやマサヒロや誰かお友だちと一緒に買いに行った。
みんなで食べるとおいしさが違うように感じた。

バナナアイスは棒に刺さっているだけなので食べやすい。でも風船アイスは違った。
アイスを注入されたゴム風船はぼくの握りこぶしくらいの大きさに膨らんでいる。
その根元は輪ゴムでギュッと結ばれていた。

食べ方は何通りかあった。
ひとつは輪ゴムをなんとか外して風船の口からちゅうちゅう吸うという一番安全な方法。
でもこれは輪ゴムを取るのがとってももどかしい。
ふたつめは家に持って帰って皿の上で風船を破いて食べる方法。
みんなと食べるからおいしいのに、こんなことするやつはひとりもいない。

みっつめはとにかくどこかを歯で食いちぎって穴を開ける方法。
これが一番てっとり早いが、運が悪いと一気に風船がはじけて中身が一瞬に飛び出てしまう。
慎重なぼくはいつも我慢強く輪ゴムを外していた。ふみちゃんもそうだった。

でも早く食べたくてしょうがないナオシはいつも風船の先っちょに噛み付いた。
案の定、たまに中身がぴろんと飛び出して、丸い形のまま地面に落ちた。
さすがに口でフウフウしたり、洗って食べるわけにはいかないので、がっくりと肩を落とした。

店の商品で、たまに食べさせてくるのは、ビスコかタマゴボーロだった。
駄菓子よりも上等な味がするから、ぼくはどちらも大好きだ。
ミルクの味がしてとっても甘い。滅多に食べられないから、なおのことおいしかった。

じいちゃんは、なにかにつけて「ジャコ食え、ジャコ食え。」と言う。
骨が丈夫になるからだという理由らしい。
肉が嫌いだったぼくは煮干のジャコも縮緬雑魚も魚は大好きだった。
ウナギは嫌いになっちゃったけど。

中でもぼくの大好物は”ハツ”だった。”キハダ”ともいうらしい。
お客さんのときに出てくるマグロの刺身のようにハツは赤くない。
少し身が固いけど、薄い桃色をしていて黒いお醤油につけると甘くておいしい。

たまにお母ちゃんが「今日は何を食べたい?」と聞いてくれると、
待ってましたとばかりに、いつも「ハツ!」とこたえた。

「じゃあ一緒に買い物に行こうか。」
「うん。」

買い物駕籠を提げたお母ちゃんと商店街を歩くといつもと気分が違った。
お金持ちになったような気がして、何でもほしいものが買えるんじゃないかと思った。

窪田の八百屋と小笠原商店の前を通っていくが、お母ちゃんはちらちらと品定めするだけだ。
お買い物は遠くの店からするのだ。
今日は魚を買うので、最初に行くのは魚屋だ。

赤い郵便ポストのある、松田のタバコ屋の角にホキヤマの魚屋はあった。
近づいていくと何やら店先で魚を焼いているようで、白い煙がモクモクと立ち上がっていた。

「カツオを焼いてるみたいね。戻り鰹があがったかも。」
「モドリガツオ?」

店に着くと丁度新しいのを焼き始めるところだった。
ゴムの長靴を履いたおじさんが店の前にしゃがんでいた。
そこには蜂の巣のように穴だらけになった一斗缶がひとつ置いてあった。

おじさんはそれに一束の稲ワラを入れて、火の点いた新聞紙をその中に放り込んだ。
するとあっという間にワラ全体が燃え始めた。
おじさんはすぐにケースの上の長い柄に手を伸ばした。
柄の先は四角いワクの鉄格子が二枚ついていて、その間にカツオの切り身が何本か挟まれている。
それは燃え上がる火の上にぐいっと差し出された。

バチバチとはぜる音がしたかと思うと、もう鉄格子はひっくり返された。
今度は皮がジャアーといいながら焼け始めた。
ワラの火の勢いもここぞとばかりに大きくなった、と思ったら急にしぼんだ。
おじさんは一斗缶の上からすばやく離し、鉄格子ごと氷水の入った容器の中にカツオを突っ込んだ。

「じゅうううう」

カツオは一瞬で冷まされ、缶からは白い煙が上がった。
何人かの買い物客がその様子をみて、うんうんとうなづいている。
でも、ぼくはカツオの誘惑には負けなかった。

「お母ちゃん、ハツ、ハツ買ってね。」
「はいはい。じゃああんただけハツね。」

そしてお母ちゃんはカツオのタタキとは別に、ハツの刺身をひと舟注文してくれたのだった。

Sakanaya.JPG

宝永町248番地 第59話 [Wessay]

サルビアの花

夏休みが終わって、二学期がはじまった。
ふみちゃんは学校が違うし、ナオシは学年が違うので、久しぶりに会う顔ばかりだ。
今年は台風もきたけど、暑い夏だったからか、みんなよく日焼けしている。
始業式が終わって教室に帰る途中、タケシがふざけてシャツを脱いで、上半身はだかで
廊下を走りだしたが、少し遠ざかる背中はまるでランニングを着ているように見えた。

教室に戻って宿題を出したら、あとは先生に挨拶をして帰るだけだった。
ぼくの組の担任はオカザキ先生という女のひとだ。
お母ちゃんよりちょっと年上みたいだ。
それはさておいてもお母ちゃんとは随分雰囲気が違う。

体つきがぽっちゃりしているので、まず見た目が正反対だ。
その上、丸顔で髪の毛のパーマもくるくると巻いている。怖いと思ったこともない。
ぼくの家族の女のひとたちとは別の温(ぬく)い感じがして好きだった。

昼前に小学校から帰ってきたぼくは特に何もすることがなかった。
ふみちゃんちに行ってみたけど、まだ帰っていなかった。
オカザキ先生は病院の裏のアパートに住んでいる。
何の用事もないけど、あまりに近所なので、気まぐれで足が向いてしまった。
先生のやさしさにつけ込んで、構ってほしいからだというのはうっすらと自覚していた。

「せんせーい!いるー?!」

部屋の呼び鈴を押してみたけど返事がなかった。まだ学校から帰っていないらしい。
「ぼくたちの宿題の点検をしているのかなぁ。」
ぼんやりと先生のお仕事のようすを想像してみた。
「ぼくの工作の宿題を見て、どう思っているだろう。」
「”夏のこども”は多分間違いだらけだろうな。」

最近、学校の花壇にも咲いている赤い花の、ほんのり甘い蜜を吸うのを覚えたぼくは、
アパートの入口に植えてある朝顔のしおしおになった花を「どんな味がするんだろう」と見つめた。
大きい分、蜜もたくさんあるのかなとか、青い花は苦いのかもしれないなどと、
コンクリートの段に座ってあれこれ考えていたら、先生が帰ってきてしまった。

「どうしたの?何かあったの?」

丸い顔がちょっと驚いた表情になりつつも、腰をかがめながらぼくにやさしく問いかけてきた。
ぼくは、何にも用事がないのだから何とも答えようがなく、ただもじもじしていた。

「先生、これからお買い物に行きたいんだけど。」

さっさと用件を言いなさいと促されているのがわかったし、一緒に行きたいとも言えないので、
「なんでもない。ちょっと先生に会いに来ただけ。」
と本当のことを伝えた。

「そう、じゃ今日は残念だけど、また遊びにおいで。」
「うん。さようなら。」

ぼくは約束をとりつけたことに満足して、駆け出した。

「さようなら。またあした。」

先生の声に背中を押されたからじゃないと思うけど、何故かスキップしていた。

そして、「寿司よし」の看板が見えたとき、学校の違うヒロシの姿を暖簾の中にみつけた。
ということは、ふみちゃんも帰ってきてるかもしれない。
ぼくはもう一度走り出した。


Salvia.JPG

宝永町248番地 第58話 [Wessay]

夏休み最後の日

ふと気が付くと、クマゼミの声が聞こえなくなり、ツクツクボウシの声がヤケに大きく耳につく。
その日を迎えるたびに、ぼくはどうしてもさみしい気持ちになる。
もうすぐ秋がはじまるよと風がいうのだ。つまり夏休みが終わるということがさみしいのだ。

大事な大事な夏休み。
宿題はまだ全部やってないと思うけど、そんな事よりも何かやり残したことがあるようで仕方がない。
ぼくは俄然そわそわしてきた。さて、何をしようか。

やっぱり虫捕りか魚獲りしかない。
ぼくは虫捕りに行くことに決めた。昆虫の標本を作ったら、宿題のひとつになるかもしれない。
すでにセミやチョウやカミキリ虫など、いくつか材料は集まっている。
あとは主役となる、カブト虫かクワガタをつかまえれば標本箱が完成するような気がした。

さて、どこに行こうか。
川向こうの製材所に行けばいるかもしれない。今年も大鋸屑の中から幼虫は何匹かみつけた。
でも成虫は一匹もつかまえられなかった。
そうなると、あのとっておきの場所に行くしかない。

ふみちゃんたちにも内緒の場所だ。
川を渡り、田んぼを越えた先にある、比島の交通公園に行く途中にある小さな里山。
山というよりも少し盛り上がった丘をおおう杜なのかもしれないが、ぼくにはわからない。

歩いて行くにはかなり遠い。
でも放浪癖のあるぼくは後先を考えず、自転車では行かないことにした。
親たちにも何も言わないで行くことにした。だめだと止められるに決まっている。

使い古して土色になった虫捕り網と、真ん中からパカッとふたつに割れる緑色の虫かごと、
”かがく”の付録の昆虫採集用の注射器と薬品を持って、ぼくはでかけた。
往きはまさに揚々だが、なかなか辿り着かない。用水路の水門では当然しばらく道草を食う。
あぜ道でバッタに出くわすと、それが獲物ではないのについ追いかけてしまう。

そんなこんなで、里山の入り口に着くには相当に長い時間がかかったが、疲れは全くなかった。
お楽しみはこれからなのだ。

なだらかな砂利道を登りはじめると、すぐにお出迎えが現れた。
赤と青に輝く大好きな虫、ハンミョウだ。
ぼくの歩く数歩先の地面の上にいる。でもぼくの背丈くらいの距離まで近づくと、ふわりと飛び立つ。
逃げていくかと思うと、また数歩先に背を向けて着地し、じっとしている。

からかわれているようでもあるし、道案内をしてくれているようにも思える。
網を持っているから捕まえようと思えば捕まえられるけど、色鮮やかな姿を見ているだけでも楽しいから、
しばらくからかわれることにして、ハンミョウと一緒に先に進んだ。

目的の場所はもうそう遠くない。山道から少し森の中に分け入ったところだ。
どこから入るかの目印となるものは、ぼくだけが知っている。
そんなに危ない場所ではない。崖にもなっていないし、藪を掻き分ける必要もない。

まもなく目印を発見し、雑木林の中に入っていった。
そこの、ある一本の木はいつも樹液がいく筋か幹をつたって流れているのだ。
それに虫たちが集まってくる。今日も必ずいるはずだ。

ぼくはそろりそろりと近づいた。
木のこちら側は逆光になっていて、樹液が垂れている場所はぼくの背よりも高い位置なので、
よく見えなかった。
ある程度近寄ってから、木を中心にして円を描くようにカニ歩きをした。
すると、まずはカナブンの緑色の背中がキラリと光るのが見えた。

「いるいる。」

ぼくは心の中でニンマリしながら、虫捕り網を持ち直した。
さらに移動して幹全体が木漏れ日の中に現れたとき、怪しく動くものを見とめた。
それは木の上の方から樹液に向かって斜めにざわざわと近寄ろうとしていた。

毒キノコのように赤黒い背中。
数え切れないほどたくさんある真っ黒い足。
幹を一周してしまうほどの長い胴体。
この世のものとは思えないほど特大のオオムカデだった。

ぼくは、ぎゃあと叫んだ。声に出たかどうかもわからないが、とにかく仰天した。
まるで衝撃波に体を打たれたように木から飛びのいた。

そしてそのまま一目散に走って帰った、家に着くまでの記憶が全く何も残ってない夏休み最後の日。

Tree.JPG

宝永町248番地 第57話 つづき [Wessay]

台風 (つづき)

それから数日後、宝永町商店街にいよいよ台風が近づいてきた。
大きいのが近づいているとテレビの人も話している。
説明がなくても昨日から降っている雨がいつもの雨じゃないのは、ぼくにだってわかった。
雨が粒じゃなくて、水のかたまりのようなのだ。

風も違う。なま暖かくて、不規則に強さが変わる。
下手くそなリコーダーの演奏のように、ヒューヒューと、吹いているかと思うと、
まるで壁が動いてくるように大きく重く、びゅうううっと、松や棕櫚の木の幹まで大きく揺らす。
湾の中を波を立てながら町に向かって進んでくるゴジラの姿が頭に浮かぶ。

そんなことをぼくが想像してしまったことがいけなかったのか、町は大変なことになった。
トブの水が逆流してきたかと思うと、あっという間に溢れ出した。
みるみる道路は水浸しになっていく。どうやら堤防が決壊したらしい。

家中が大騒ぎになった。真っ先に店のシャッターを閉めて雨戸という雨戸を閉じた。
でも足元から湧き上がってくる水には何にも効果がない。
子どものぼくは何も手伝えない。「二階に行ってなさい」と言われただけだ。
それでも母屋の台所に留まっていた。

店では帳面やお金などの大事なものを片付けはじめたようだ。
じいちゃんとばあちゃんは裏の家の仏壇の中身だけを風呂敷につめて母屋に持ってきた。
それからすぐに取って返して、畳を上げはじめた。

犬のレイが小屋の中でわんわん吠えている。もう小屋の床が濡れているのだ。
ぼくは犬小屋の扉を開けてレイを出した。
「あ、タマ!」
猫のタマの姿が見えない。一番いそうなのは裏の家なのだが、じいちゃんに聞くといないという。
台所の隣の居間にもいない。まさか大騒ぎになっている店にはいないだろうと思って、行かなかった。

タマのことは一旦さておいて、鶏の様子を見に裏庭の鶏舎に向かった。
地鶏たちは高い止まり木や巣箱の屋根の上に移動して皆じっとしていた。
庭は道路よりも少しだけ高いけど、すでに鶏舎の中も水浸しだった。
鶏は扉を開けて逃がすわけにはいかないと思ったのでそのままにしておいた。

その内に停電になった。
まだ陽は暮れていないのでお父ちゃんを筆頭に店の人たちはお酒をトラックに載せたり、
タバコのダンボール箱を物置の高いところに移動させたり、できるだけのことをしていた。
とうとうぼくも「二階にいろ」と叱られたので、タマのことは神様にまかせることにした。

それからも水位はどんどん高くなってきた。
腰の高さに達したころ、皆はもう作業を打ち切った。暗いし、人間がやられては元も子もない。
家族はみな二階に非難した。
それでもぼくは蝋燭の灯りの中で食べるあり合わせの夕食をなんとなく呑気に楽しんでいた。

「ねえ、イイナズケって何のこと?」
「許婚者っていうのはな。大人になったら結婚する相手のことじゃ。」

お父ちゃんに代わってじいちゃんが答えてくれた。

「結婚?ぼくはちさちゃんと結婚するの?」
「あの子と結婚するのか。それはよかったよかった。はははは。」
「そうかそうか。誰が決めた?」
「お父ちゃんが決めた。」
「そうかそうか。」
「美人のお嫁さんでよかったね。」

何か腑に落ちない気分だったけど、皆がニコニコしているから悪いことではないらしい。
半分からかわれているなどとは思いもしなかった。


翌朝、雨は上がっていたが、宝永町商店街は別世界になっていた。
水は大人の胸の高さくらいになってたが、周りの会話を聞くと、これでも少しひいたみたいだ。
中庭を見下ろすと、洗濯機がプカプカと浮かんでいる。その他にも色んなものが浮いている。
たくさんの木箱や空瓶、じいちゃんのゲタも片方だけ見える。
せっかく荷台に載せたお酒はトラックごと沈んでいた。

もう大人たちにもどうすることもできないみたいだった。
町全体が半ば水没しているのだ。商品をどこかへ移動させたくても持って行き先がない。
平屋建ての家に住んでいる人たちは一体どうしたんだろうと思ったが屋根に登っている人は見当たらない。
ラジオで放送を聞きながらじっと水がひくのを待つしかない、
じたばたしても仕方がないという皆の覚悟が、言葉なくしても伝わってきた。

午後、窓の外から何やら威勢のいい大人のひとの声が聞こえてきた。
風も弱くなってきていたので、ぼくはベランダに出て外の様子を窺った。
すると、小路を挟んだ隣のカリヤばあの家の二階の窓から、男の人が身を乗り出しているのが見えた。
それから、川のようになった小路を見下ろして叫んだ。

「ほら、来た来た。こりゃまた大きいぞ。」

指差す方を見てみると、大きな魚がゆらゆらと泳いでいた。
鯉だ。しかも派手な色のやつだ。多分、誰かが飼っていたのが逃げ出したのだろう。
男の人は家の中に消えたが間もなくまた現れた。手には長い角材を持っている。
ぼくは何がはじまるのか想像もできなかったが、じっと様子を見ていた。

その人は窓枠に角材を立てかけると、その先に五寸釘を斜めに打ちつけ始めた。
釘の尖がった方が角材の先端から突き出た。
どうやらモリを作っているようだ。

予想どおり、そのモリを鯉めがけて突きだした。
しかし俄か漁師の腕ではいくら観賞用の魚でも仕留めるのはむずかしいらしい。
何度も突くが命中しない。獲って食べるつもりじゃないことは、ぼくにもわかった。
ただヒマ潰しに遊んでいるのだ。洪水を楽しんでいるのかなぁとも思った。
鯉は何匹かいたが、そのうち皆遠くへ泳いでいってしまった。

次に目にしたものは商店街の通りから現れた。
それは、在り合わせの材木を適当に組んだ、見るからに心もとないイカダだった。
しかも男の人がふたりも乗っている。

「どこに行くんだ?」

お父ちゃんが大声でたずねた。

「菜園場まで行ってみる。」

返事の声に緊迫した様子はない。この人たちも半分遊んでいるのだ。
菜園場とは隣町の商店街だが、行ったって空いている店などないことはバカでもわかる。

大きな木が流れてきたり、亀が泳いでたり、胸まで水に浸かって歩いていく人を見たりしているだけでぼくは退屈しなかった。

さらにその翌朝、すっかり水のひいた道路にぼくは出た。
様々なゴミや木やなんだかよくわからないものがそこら中に散乱していて、
大人のひとたちはそれを一生懸命に片付けていた。

そんな大変さをよそにぼくは家の周りをさまよった。ふみちゃんたちにも会った。
みんな無事でよかったなと思いながら道路に落ちているものを物色していると、
大きなウナギを発見してしまった。しかもまだ生きている。
黒い背と白い腹を交互に見せて道の上でのたくっていた。

「じいちゃーん。ウナギ、ウナギ。ウナギがいたよ。」
「さわったらいかんぞー。」
「どうしてー?」
「道に落ちてるものはみなクソまみれじゃ。」

その一言でわくわくしていた気持ちが一気にさめてしまったので、すごすごと家の中に戻った。

そしてぼくはまた二階のベランダに出て、ちさちゃん家の方角をぼんやりと眺めていたら、
裏の家の屋根の上を悠然と歩くタマの黒い後ろ姿が見えた。

P1010492a.JPG

宝永町248番地 第57話 [Wessay]

台風

ぼくの住んでいる町には毎年のように台風がくる。
今朝もテレビの天気予報で台風が発生したと言ってた。

台風発生と聞くと、ぼくはいつもゴジラを連想してしまう。
海の中を泳いで日本に近づいてくる怪獣と、渦を巻いてやってくる台風は怖さが似ている。
こっちに来たらどうしようという不安と、もし来たらどうなるんだろうという好奇心が
胸の中で入り混じる感じもそっくりだ。

台風は出現したばかりのようだが、すでにその予兆は子どものぼくでもわかった。
空気が重い。どんよりとした空は、漬物石で上から押されているような気がする。
時折、小雨もぱらぱらと降ってくる。降ったり止んだりする変な天気だ。

そんなある日、お父ちゃんのお友だちだというおじさんが訪ねてきた。
このおじさんも酒屋をやっているのだそうだ。
でも仕事のお話をしにきたわけではないようだ。
なぜなら、おじさんは自分の子どもを連れてきていたからだ。

ぼくと同い年の女の子で、名前はちさちゃんというらしい。でも小学校は違う。
ぼくのともだちの中にはこの子に似た子はいないと瞬間的に判断した。
少しよそ行きの服を着ていたからかもしれないが、ちょっとすましたような、かしこそうな感じがした。

でもお父ちゃんは初対面ではないらしい。
子どもと対面するといつもそうするように、大きな手でちさちゃんの頭をぐりぐりやっている。
そんなことに動じもせず、うまく挨拶できずにもじもじしているぼくを彼女はじっと見ていた。

歓迎の挨拶がおわるとお父ちゃんとおじさんはさっそくとばかり酒盛りをはじめた。
まだ昼間だけど、今日は日曜日でお店はお休みなのだ。
大きなコップで、まるで競い合うようにビールをごんごんと飲んでいる。
でもおいしそうだった。とても楽しそうに注ぎあっている。

ぼくとちさちゃんはほったらかしにされた。
ばあちゃんがジュースを出してきてくれたけど、すぐにどっかへ行ってしまった。
お母ちゃんは妹をつれてお買い物に出かけている。
じいちゃんはいつものように裏の家の縁側で将棋を指しているだろう。

ぼくは途方にくれた。
あまり突然にこんな情況になったけど、それが理由ではなかった。
理由は自分でもわからないが、とにかく途方にくれているしかなかった。

「何かしてあそぼ。」
「じゃあ、二階へ行こう。」

ぼくは母屋の台所から中庭に降りて、ちさちゃんをぼくの部屋がある倉庫の二階へ導いた。
風呂場の脇から鉄でできた階段をコンコンと上っていくと小さな玄関がある。
そこで靴をぬいで部屋へ案内した。

いつものお友だちと女の子をいれて家の中で遊ぶときは、お店屋さんごっこをしたり、
ブロック遊びをしたり、調子に乗るとチャンバラごっこまでするのだが、
はじめて遊ぶ子とは何をしたらいいのかわからなかった。

だからぼくは自分で決めないことにして、持っているおもちゃを片っ端から見せた。
絵本、ブロック、積み木、銀玉鉄砲、次から次へとおもちゃ箱の中から取り出した。
ちさちゃんは、ふうんという面持ちで眺めているだけだった。

どうもピンとくるものがない様子だ。
だったら外へ出て遊ぶのが一番いいのに、今日はそういうわけにはいかない。
ぼくは台風を初めて呪った。

しょうがないので、何かに興味を示してもらうために、いちいちおもちゃの説明をした。
だけどほとんどが男の子用のだから、いくらこちらが熱心に語っても伝わらないらしい。
いつもはお友だちにもなるべく触らせないサンダーバードでさえ効果はなかった。
国際救助隊なのに。

「ちさちゃん、ベランダに行こう。」
「ベランダ?」
「こっちこっち。」

ベランダは狭かったけど、雨粒が飛んできても気になるほどではないくらいの造りになっている。
そこから見えるものについてぼくはちさちゃんに話した。
ぼくの通う小学校は見えないけれど、遠く東に見える山やぼくたちの秘密基地のことを教えた。
ちさちゃんも自分ちのある方角を指差してくれた。

そうこうしているうちにお父ちゃんがぼくたちを呼びにきた。
どうやら外に飲みに出かけるようだ。

「ちさぁ、いっぺん家に帰るぞぉ。」

おじさんも後ろから呼んでいる。

間もなくハイヤーがやってきて、お父ちゃんはおじさんとちさちゃんと一緒に行ってしまった。
独り取り残されたぼくは、なんとなくほっとしたような、ちょっとしくじったような、
ゴジラと台風のような心持ちになっていた。
誰かともだちのところに遊びに行こうかとも思ったが、気乗りがしなかったのでやめた。

その晩、昼間から飲んでいたせいか、まだぼくが起きている時間にお父ちゃんは帰ってきた。
なんだかご機嫌のようだ。
そしてぼくの頭をぐりぐりやりながらこう言った。

「お前とちさちゃんはいいなずけになったからな。よかったな。」
「イイナズケ?」

(つづく)

P1010403.JPG

宝永町248番地 第56話 [Wessay]

エビ漁

オザキのおじちゃんがたまたま家にやってきて、明日、エビ漁に行くという。
おじちゃんは漁師ではない。シロアリ屋さんだ。
アリを売っているわけじゃなくて、退治するのが仕事だそうだ。
ぼくの家は酒屋だが、親戚には色んな商売をしているひとがいる。

「いっしょに行くか?」
「行く!行きたい!」
「よし、それじゃあ明日の朝迎えに来るから。」

白髪交じりのおじちゃんはシロアリ退治の車に乗って帰っていった。

翌朝、ぼくはいつもより早く起きて、じいちゃんに頼んだ。

「ねぇ、セミ捕りの網を付け替えて。」
「ええぞ。竿持って来い。」

竿の先に付けていた、本当は魚獲り用の金属の小さな網を外してもらった。
それを別の竹竿の先に針金で括り付けてくれた。
仕上げにじいちゃんは、網の形をまん丸に整えて、少しお辞儀するように角度をつけた。

「よっしゃ。これでええやろ。」

鶏にもエサをあげて、朝ごはんもさっさと終わらせて、ぼくは待った。
シロアリ退治の車がくるのを開店準備をしている店の前で待った。

間もなく、プップーとクラクションを鳴らして白い軽トラックが神社の前に停まった。

「おう、おはよう。すぐ行けるか。」
「うん、大丈夫。」

ぼくは車窓から出た日焼けした黒い腕に頭を撫でてもらって、荷台に竿を放り込んだ。
助手席に飛び乗って、どこに行くのか聞くと、十市の浜というところらしい。

「浜?海に行くの?」
「いや、海の近くだけど川だよ。田んぼの中を流れている小さな川だな。」

足元には何かの瓶が転がっているし、荷台にもホースや缶が載せられていて、
ちょっとくさかったが、その臭いにも慣れてきたころ、おじちゃんが言った。

「ちょっとこの辺で寄り道していくぞ。」
「何するの?」
「エサをとる。」
「ふうん。」

そこはもう里山の中の砂利道で、片側は畑、反対側は山の斜面だった。
畑側は燦々とお日様が降り注ぎ、野菜の緑が夏の光を吸い取っている。
山側は斜面から生え伸びた木々が軒下をつくり、しっとりとした薄暗がりになっている。

おじちゃんは地面が湿ったところを見極めて、土を手で掘り始めた。
掘った土をじゃんじゃん道路側に撒き散らす。
するとほじくりかえした土塊の中からヘビみたいのがでてきた。
砂利道の上でくねくねとのたうちまわっている。

「うわぁ!ヘビだ!」
「ちがうちがう、大丈夫。これはミミズじゃ。貫太郎ミミズじゃ。」

それはぼくの親指よりも太くて、まだ使っていない鉛筆よりも長い大ミミズだった。
ぼくはおそろしくて手伝うことができなかった。
ミミズは全然こわくないけど、こいつはどうしてもミミズとは思えなかったからだ。

ぼくがぎゃあぎゃあ騒いでいるうちに数匹の貫太郎をおじちゃんは木箱に入れていた。
もう出発するという。そんなにたくさんは要らないらしい。
でも、エサが逃げないように、しっかり木箱を持つのはぼくの任務だった。

到着した十市の浜は海岸ではなくて田んぼの真ん中だった。海も見えない。
微かにしょっぱい風が吹いてくる方のずっと先にはくっきりと白い雲がにょきにょきと生えていた。
車から降りたオザキのおじちゃんはさっそく漁の準備をはじめた。

まずは針金を出して、それをミミズの頭からしっぽに通した。
どっちが頭かはわからないけど、針金を丸く曲げることによって頭としっぽがくっついた。
余った部分をねじると、金魚すくいの道具のようになった。

それを竹竿の先に紐で結わえた。
ぼくのためにおじちゃんはもうひとつこしらえてくれた。

「よし。これでええやろ。網は自分のがあるか。」
「うん、これでいい?」
「上等。それじゃ準備はおわりだ。川に行こう。」

川といっても少し広い用水路のようだった。ただ、岸から水面までの距離が長い。
深さは用水路よりも浅いくらいだ。澄み切っているのでよくわかる。
ぼくはおじちゃんのすることをよおく観察することにした。

まずはミミズの輪っかの付いた竿を静かに川に入れる。
川底と輪が水平になるようにして、そのままじっと待つ。
すると、岸辺側の水草の中から何かがそろそろと出てきた。

淡く黒茶けたふたつの爪を身体の前に長くさしだしている。
エビだ。
ミミズの匂いに酔ってるみたいに、ちょっとだけゆらゆらしながらも足を運んでる。

おじちゃんはまだじっとしている。まったく動かない。
エビはごちそうにたどり着いて、おいしそうにつまみはじめた。
ハサミを交互に使い、夢中になって次々に口に運んでいる。

そこでおじちゃんは次の動作に入った。
右手に持った網の付いた竿を、そおっと水の中に入れた。
エビの背後からゆっくり網を近づけていく。左手のミミズの竿はびくとも動かさない。

網がエビのしっぽのすぐ後ろに到達した瞬間、ミミズでエビの顔をちょんと突いた。
食事中のエビは驚いて後ろに跳ねた。だけどその先は網の中だ。
なるほど、そういうことか。ザリガニみたいにバカじゃないんだな。
ぼくは心の中でつぶやいた。

「ほら、見てみ。これが手長エビじゃ。ハサミが長いだろ。」
「おじちゃん、ぼくにもやらせて。」
「おう。やってみい。」

最初のうち、何回かは見事に逃げられた。
網を近づけるうちに気が付かれたり、網にうまく飛び込んでくれなかったりした。
だけど、次第にコツがわかってきて、ぼくにも獲れるようになった。
自分でつかまえた手長エビは格別に大きく見えた。

何匹か獲っているうちにエサのミミズもボロボロになってきた。

「よし、エサを変えようか。貸してみい。」

おじちゃんはぼくの手からミミズの竿をとると、手際よく別のに付け替えてくれた。
これは自分でやるとはやっぱり言えなかった。


三匹目のミミズがズタズタになったころ、おじちゃんが言った。

「もうええやろ。だいぶ獲れたから、そろそろ帰ろうか。」

ぼくはもっともっと、一日中でもエビ漁をしたかった。
獲っても獲っても飽きることはなかった。
腕もどんどんあがってきたし、全然疲れてもいない。

でもエサはもうない。おじちゃんは大体の予想を立てて必要な分だけのミミズを捕り、
十分なだけエビを獲ったらおしまいにするつもりだったのだ。
ビクの中にはたくさんの手長エビが入っている。

「どうだ。おもしろかったか?」
「うん、でももっと獲りたかった。また来たい。」
「よし、また来ような。」

道具を片付けてトラックに載せ、ぼくたちは出発した。
ぼくの膝の上にはミミズの箱の代わりに大漁の獲物の入ったビクがある。
ガサゴソと動いている手長エビをこれからどうするのかは知らなかった。

砂利道をゴトゴト、ガタガタとぼくたちのエビ獲り号は進んでいった。
湾に架かる長い橋を渡るころ、窓からひゅっと吹き込んできた風にぼくは起こされた。
そして、白い手拭いを頭に巻いたオザキのおじちゃんはトラックを運転しながらこう言った。

「今晩の酒はうまいぞぉ。」

tenagaebi.jpg Photo by YS21

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。